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執筆者の写真SIJIHIVE Team

中国ならでは?スポーツ界に見る中国のエリート教育事情


赤いバスケコート5つと、大きな陸上競技場、サッカーのフィールドなどが集合している、中国の都市にあるスポーツ施設と、各フィールドでスポーツをする人々

2024年夏に開催されたパリオリンピックでは、日本は金メダル・メダル総数とも海外大会の最多数を更新したそうです。ただ、金メダルの数だけを比較すると最高数はアメリカと中国がともに40個獲得し、中国に関しては自国開催だった2008年の北京オリンピックに次ぐ個数だったとのこと。


メダル数の比較は政治的な話題になりかねませんので、ここで詳しく論じるつもりはまったくありませんが、今回取り上げたいのはその背景にある中国スポーツのエリート教育です。中国のエリート教育に対するこだわりはスポーツ界だけでなく、受験戦争などにも見ることができます。そして、そこには中国の社会状況や人々の価値観が反映されています。




幼いころからスタートする受験競争

中国の学校にある誰もいない教室に並べられた机と、その上に置かれたノートや本、教室の前にある黒板とその上に掲げられた赤いスローガンの横断幕

今から15年ほど前になりますが、はじめて中国に旅行に行ったときに驚いた光景を目にし、今でもそれが脳裏に焼き付いています。2月の寒い冬の朝、私は大連にいました。何気ない一日がスタートした朝7時頃、ある小学校の前を通り過ぎた際に、小学校低学年と思われる男の子が寒さをものともせずに門の付近に立って、何かを大声で朗読していました。


当時、中国語をまったく話せなかったため、その子が中国の詩を朗読していたのか、成語を暗唱しようとしていたのか、それとも何か別の文章を読んでいたのかは分かりません。しかし、幼い子が発する「気迫」のようなものを感じ、圧倒されたことを覚えています。


のちに中国で暮らすようになり、大学などで教鞭をとる機会もあり、中国の子たちが幼い頃から大きなプレッシャーを背負いながら学んでいることを少しずつ理解するようになりました。多くの子たちにとって学ぶ目的は「良い大学」に入るためであり、その先にあるのは「良い仕事」に就くことです。


だからといって、大学で接した若者たちが競争に巻き込まれて不満ばかり述べていたり、いつも悲壮な顔をしていたわけではありません。また、誰もが「学び」を自分が「のし上がる」ための手段のようにみなしていたわけでもありませんでした。


ただ、「有名大学」や「高収入の仕事」という門戸が狭められているため、競争が激化するのは制度的に避けられないことなのです。当時、多くの若者たちは、貧困家庭であっても、農村出身であっても、成績が良ければ成功を手にすることができると信じており、学歴は言わばそのためのパスポートのようなものと考えられていました。




スポーツのエリート教育との共通点

中国の都市の広場で白や赤の太極拳服を着て太極をする男女のグループ

中国に住んでいるときに感じていたのは、中国の人たちがスポーツを好む国民だということ。


朝、公園に出掛ければ太極拳や設置されている器具で体を鍛えている年配者で賑わっていますし、大学の運動場に設置されたバスケットゴールにはいつも学生たちが集まり、3on3 を楽しんでいました。また、夕食後には年齢に関係なく散歩に出掛ける人たちで夜の街中はごった返し、さらに広場では「広場ダンス」をするためにおばちゃんたちが集っていたことを覚えています。


※広場ダンス(中国語:「广场舞(Guǎngchǎng wǔ)」)とは、中高年の女性たちが歩道や広場、公園などの公共スペースに集まり、音楽をかけながらダンスすること。中国であればどの街でも見かける光景だが、大音量で音楽を流すため騒音などの理由で近隣住民とのトラブルも発生し、一部社会問題になっている。


一方でそれとは全く違う世界でスポーツに打ち込む人たちがいます。それがスポーツの世界でプロを目指す子供たち、若者たちです。競技にもよりますが、小学生や中学生の頃からスポーツ専門の学校に通い、厳しい条件でトレーニングを積み、オリンピック選手などを目指します。


日本では中学卒業くらいまで子どもたちに学業もスポーツも両方体験させ、その後、主に本人の意思を尊重しつつ、その後の専攻を選ばせる傾向が強いように思いますが、中国ではより早い段階で親やまわりの指導者が進路を決めて指導します。


ただ、考えてみると、日本の教育システムも時代とともに変化してきているため、これらの違いが日本と中国の文化的相違に内在するものなのか、それとも時代のトレンドなのかは断定できません。



「填鸭式教育」とは?


計算式などが書かれた黒板を背に、本や地球儀、ペン立てなどが置かれた机の上でお昼寝をするアジア人の男の子

中国語に「填鸭式教育(tián yā shì jiào yù)」という言葉があります。日本語に訳せば「詰め込み教育」ですが、漢字をみると分かるように「鴨」を太らせるために無理やりエサをあげることを指しています。


つまり、鴨が食べたいかどうかに関わらず出荷のタイミングに合わせて太らせるように、詰め込み教育とは、子どもが何を学びたいか、どんなスポーツをしたいかに関わらず、親や教師が一方的に情報やトレーニングを与える方式です。


よく詰め込み教育は子どもの自由な発想を阻む「良くない」教育だと言われることもありますが、他方で知識の詰め込みは一定程度必要という見方もあります。ここでは、それぞれの教育法の良し悪しについては評価しませんが、勉強にしろ、スポーツにしろ、詰め込み教育に限界があることは確かです。


体操や水泳の飛び込みなど個人競技をメインに強さを発揮する中国スポーツエリート教育の基本は、長時間の反復練習だと言われています。そんなエリート教育法では通用しないと言われているのがサッカーだそう。


かつて日本のサッカーが伸び悩んだ時期も長時間の反復を繰り返す練習法に原因があったのでは、と分析する専門家もいますが、サッカーは子どものうちに遊びとしてはじめ、考えて行動していくことが状況判断や戦術眼、駆け引きなどにつながるとのことです。




「詰め込み教育」?それとも「ゆとり教育」?

青と白のユニフォームと黒いナイキの靴を履いてボールを打った瞬間の男の子のバッターと、フェンスの外の観客席で観戦する人々

中国と日本の教育法のいずれにも触れるとき、詰め込み教育もゆとり教育も一長一短があるなと思わされます。


日本のサッカーが以前に比べて飛躍した要因の一つに「選手主体のボトムアップ方式」があったそうですが、詰め込みもゆとりも誰かから強制されるものではないんだなと感じます。つまり、外から見れば詰め込みのように見えても、本人が自ら必要だと思っているならそれは尊重すべきですし、逆に遊んでいるように見えても、本人が楽しんで取り組んでいるなら周りが別のトレーニングを押し付けるべきでもないでしょう。


勉強にしてもスポーツにしても、制度としての「ゆとり」や「詰め込み」に組み入れるのではなく、メリハリをつけて、詰め込むこともゆとりをもって遊ぶこともできる。そんな姿勢を、大人は自分の仕事ぶりを通じて子供たちに見せることができるのかもしれません。




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著者プロフィール


YOSHINARI KAWAI


2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。



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