翻訳という仕事に携わる前は、海外の小説やビジネス書の「著者」に注目することはあっても「翻訳者」を気にすることはほとんどありませんでした。実際、多くの本のカバーにも翻訳者の名前はこっそりと、やや申し訳なさそうに表記されているのみです。
しかし、忘れてはならないのは、もし私たちが手にしている作品が「翻訳作品」であることを忘れてしまうくらい没頭できるとしたら、翻訳者の仕事がとてつもなく素晴らしいことの表れだということです。
ちなみに私が最近その経験をしたのは「ザリガニの鳴くところ(訳:友廣純さん)」、「限りある時間の使い方(訳:高橋璃子さん)」の二作品です。どちらもベストセラーですが、原作の面白さのみならず、訳の素晴らしさに触れられただけでも読む価値があったと感じた作品でした。
さらに言えば、素晴らしい仕事は翻訳者だけでできるものではありません。編集者やマネージャーなど依頼側との共同作業であり、翻訳者がどれだけ優秀でも、依頼者のマネジメントやサポートがなければ、質の高い仕事は不可能です。
前置きが長くなりましたが、今回は依頼側にスポットライトを当てます。誰もがベストセラーになるような海外作品の翻訳に携われるわけではないかもしれませんが、依頼側、依頼される側双方が気持ちよく仕事し、高いクオリティの成果物が生み出される5つのポイントについて取り上げましょう。
依頼ポイント1:翻訳する文書の情報を伝える
翻訳者の方は一度は経験があるかもしれませんが、背景となる情報が共有されず、ファイルだけが単独で送られてくることがあります。つまり「コンテクスト」がない状態で翻訳を依頼されるパターンです。
確かにそこに「テクスト」はあるため、それに対応する日本語を当てれば翻訳はできます。しかし、それは料理人に「作ろうとする料理」や「誰が食べるのか」を伝えずに、「とりあえずニンジンを切って煮込んでください」というようなものです。料理人はどのくらいの大きさに切ればよいのか、どんな味付けにすれば良いのか分からず戸惑ってしまうでしょう。
同じように翻訳を依頼する際には、できるだけ翻訳対象の資料の概要や用途、ターゲット層など、コンテクストを伝えるようにしましょう。そうすることで、翻訳する側も使用する言葉や言い回しを変えたり、日本語の語感やテイストを整えることができます。
弊社でもこれまでの翻訳の依頼プロセスを見直し、必要な場合は簡単なドキュメントを作成してクライアントの情報、業界、言語ペア、文書の種類・用途、納品形態などを翻訳者さんに知らせるようにしています。言語ペアは意外に重要で、複数の言語が混じっている文書や、2言語以上に精通している翻訳者さんに依頼する場合などはきちんと「英語から日本語への翻訳です」と示しておく必要があります。
また、中国語への翻訳の場合にありがちなのが、簡体字に翻訳したが実は繁体字への翻訳依頼だったというものです。クライアントは「中国語」としか指定してこない場合が多いので、これも依頼時にきちんと確認する必要があります。
依頼ポイント2:後で変更が入りそうな場合はその旨伝える
翻訳するファイルを翻訳者に送ったものの、随時加筆されたり、ギリギリまで完成しなかったりするケースもあります。その場合は前もってその旨を伝えておきましょう。翻訳者が翻訳した後に「そこは翻訳不要でした。すみません!」と詫びを入れるようなことは避けたいものです。
というのも、翻訳者さんたちの報酬は基本的に「翻訳した文字数」に応じて支払われるため、不要な部分まで翻訳してもらい、後で当然のように修正依頼するのは「サービス残業」と同じだからです。
できるだけ前もって「2つ目の段落は後で修正が入るかもしれないので、その場合は翻訳対応お願いします」とか「最後の文章はまだ確認中なので飛ばしてください」というように指示しておきましょう。
依頼ポイント3:過去に同じような資料を翻訳している場合は参考資料を提供
どんなに優秀な翻訳者さんでも、予備知識の有無で翻訳の質は大きく変わります。また、IT 系や医療系など専門用語が多用されたり、会社によって好みの言い回しがあったりする場合もあります。その場合は事前に参考資料を提供しておきましょう。
特に継続案件の場合、依頼側が求める基準に沿った統一的な翻訳が重要です。同じ翻訳者さんが翻訳しても、表現にぶれが生まれることはありますし、まして違う翻訳者さんが担当する場合はなおさらです。安定した翻訳を求めるのであれば、最初はやや手間がかかるとしても、用語集(Glossary)やスタイルガイドなどを準備しておくと便利でしょう。
また、翻訳者の仕事の7割はリサーチといっても過言ではありません。参考資料や用語集の提供で、翻訳者さんの負担は大きく軽減するでしょう。
依頼ポイント4:翻訳業務の範囲を超えた依頼になる場合の対応
翻訳者さんの仕事はいうまでもなく「翻訳」ですが、案件によってはそれ以外の業務を求められることがあります。
例えば、よく「住民票」などの書類の画像が送られてきて、「翻訳してください」と依頼されることがあります。その場合、翻訳者の側としては、送られてきた写真に挿入する形で日本語に翻訳するべきなのか、それとも単に書かれている文章の意味が分かれば良いのか、戸惑ってしまいます。前者の場合は、翻訳に加え、画像編集まで翻訳者に求められることになります。
あるいは、HTMLファイルを送り「この中の英語部分だけ日本語に訳してください」という依頼もあります。翻訳者さんがHTMLに慣れていない場合は、タグ内の英語のみを目視で確認しながら、ピックアップしつつ翻訳するのはかなり骨が折れることです。
いずれも場合もできるだけ翻訳者さんの側の負担を減らし、気持ちよく仕事ができるように依頼者側で作業用のファイルを準備しておきたいものです。そうすれば、ファイルを受け取った側はスムーズに翻訳にとりかかることができます。
依頼ポイント5:希望する表現があるなら事前に伝える
弊社の場合は、日本語としての自然さに重きを置いた「ローカライゼーション」に力を入れていますが、依頼会社によっては「できるだけ原文に忠実に正確に」翻訳してほしいという要請もあります。依頼する側が翻訳の方向性を明確に伝えておかないと、一般的に翻訳者さんは後者の翻訳をすることになります。なぜなら、自分の判断でローカライズしてしまうと、依頼者側から「原文と違います。修正をお願いします」と指摘されることを恐れるからです。
翻訳表現や方向性は、翻訳する資料のジャンルやクライアントの希望などによって大きく変わってきます。契約書や仕様書のような文書であれば、正確さが求められるでしょうし、ブログ記事などの読み物であれば、読みやすさや自然さが重視されるでしょう。
また、文末の表現を「です・ます」にするのか、「だ・である」にするのかも文章全体のテイストに大きな影響を及ぼすため、依頼側から翻訳者に前もって伝えておくと良いでしょう。
まとめ
株式会社コルク代表取締役で、『バガボンド』『宇宙兄弟』『ドラゴン桜』などの編集者を務めた佐渡島庸平さんは『観察力の鍛え方ー一流のクリエイターは世界をどう見ているのか』(SB新書)の中で、「一流のクリエイターは、愛にあふれている」と述べています。
コンテクストのない引用で申し訳ないのですが、翻訳という創造的作業においても、依頼する側、される側双方に「愛」が必要な気がします。どんな小さな仕事であっても、案件や依頼者に対する「愛」があれば、それを丸投げせずに、大切し、平穏のうちにプロジェクトが進むようにマネジメントするはずです。
翻訳の仕事を単なる「ファイルのやりとり」、「文字の交換」とはとらえたくない、と感じる今日この頃です。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。
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