翻訳という作業は実に複雑で、クリエイティブです。
翻訳は、対象である外国語が表す最低限の意味をただ日本語で伝えればよい訳ではありません。一つひとつの言葉の込められたイメージ、言葉が繋がり合って読み手の心に生まれる感情、文章全体を読んだときに残る読後感もできるだけそのまま移し替えるのが翻訳です。
しかし、「伝えたいイメージは頭の中にあるのに、それを表す適切な日本語が見当たらない~!」ってことはありませんか?その「落としどころ」を見つけるために、翻訳者たちは言葉という大海原に乗り出すことになります。そして、その旅のお供に欠かせないのが、今日のテーマである「類語辞典」です。
翻訳とは「風景写生」?
私見ですが、翻訳は美しい風景を写生するプロセスに似ていると思っています。
カメラが一瞬のうちに風景を写し取るのとは異なり、写生にはいくつかの段階があります。まず、風景を目で見て、それを頭の中でイメージします。そして、次にそのイメージをキャンバスに描くのにぴったりの色の絵具をパレットに出します。絵具を混ぜたり、薄めたりしながら、自分がイメージした風景にできるだけ近づけていくのです。
ざっくり「青」とか「緑」ではなく、「鮮やかさ」や「輝き」、「ごつごつ」した手触りや「つるつる」した質感を出すには12色の絵具ではとても足りません。ある程度の色を備えた絵具が必要ですし、色の組み合わせの仕方も知っておくべきでしょう。
翻訳も似たようなところがあります。翻訳の対象言語が風景だとすれば、できるだけその言語を精緻に読める能力も必要ですが、描いたイメージを日本語に移し替えるための語彙の豊富さも求められます。その語彙が写生でいうところの「絵具」です。
SNS 時代の今、巷に溢れるコンテンツは読みやすさばかりが求められ、読み手の日本語力を低下させていると指摘されますが、それは翻訳者も例外ではありません。常に日本語にできるだけたくさん接していなければ、「伝えたいイメージはあるのに、それを表す適切な日本語が見当たらない!」という事態に陥ってしまうのです。
「experience」という単語をどう翻訳する?
たとえば、experience という単語を例にとって考えてみましょう。この単語の意味自体は難しくないでしょう。中学生でも知っている単語で「経験(する)」と訳せます。
では、皆さんは次の文章をどう翻訳するでしょうか?
・have the experience
・experience loneliness terrible
・experience back problem
・often experience trifling disappointments
・through his own experience
実はこれは類語のデータベースを参照して並べたものです。色々な訳し方があると思いますが、例えば次のように翻訳できます。
・そういう目にあう
・寂しくて仕方がない
・腰に痛みを覚える
・軽微な失望を繰り返す
・身を以て
いかがでしょうか?同じ単語でも実に豊富な表現の仕方があることが分かります。もちろん、どの文章も「経験(する)」を使って訳せないことはありませんが、experiece が持っているイメージの豊かさを訳し損ねますし、文脈と調和せずに読みづらい印象を読み手に与えるでしょう。
どんな類語辞典がある?
例えば、ネット上で見つけられる類語辞典の中で良く知られているものに weblio 類語辞典があります。広告の煩わしさに我慢できれば無料で利用できるため、個人的にも大変重宝しています。
ちなみに「経験」の類語辞典で引くと「味わう」、「舐める」、「体験」、「解る」、「経る」、「くぐり抜ける」、「感じる」、「抱く」、「被る」など、実にさまざまな単語を見つけられます。
ただ、この類語辞典は「単語の言い換え」感が拭えません。もし、一つの単語からもっとイメージを膨らませたいなら、連想類語辞典も是非使ってみてください。
この辞典で同じく「経験」を調べてみましょう。そうすると、さらに前後の文脈も含めていろんな類語を検索できます。例えば、
「(苦痛を)味わう」、「場数を(踏む)」、「(痛い目を)見る」、「(新興国の経済成長を)目の当たりにする」、「(交通事故に)遭う」、「(その場に)居合わす」、「不遇の(時期)」などなど、見ているだけでイメージが膨らむ「絵具」の数々が列挙されています!
ネット上の類語辞典だけでは、情報がどうしても断片的で物足りない、と思われる翻訳者の方は、体系的にまとめられた辞書を手にとってみるのも良いかもしれません。
例えば、2015年からフィルムアート社が刊行している「類語辞典」シリーズは、単なる類語辞典ではなく、「感情類語辞典」、「性格類語辞典(ポジティブ編・ネガティブ編)」、「場面設定類語辞典」、「トラウマ類語辞典」、「職業設定類語辞典」、「対立・葛藤類語辞典(上・下)」などの様々な用途に特化した類語辞典です。
小説家や脚本家、ライターなどがついつい頼り勝ちな表現から脱するための類語辞典とのことですが、興味深いのがこの本が英語で書かれた書籍ということ。つまり、この本自体が翻訳なのです。翻訳者としては気になるところです。
この類語辞典の特徴は、特に表現の豊かさが求められる感情や性格を中心に扱っていること。小説や漫画のストーリーに登場するキャラクターをいかに生き生きと描くかに力点が置かれており、感情を内的な感覚だけでなく、外的なシグナルや外に表れるサインも含めて類義語として挙げています。
例えば、「愛情」とは「相手に対する深い好意、愛着、情熱」と定義した上で、外的なシグナルに「相手に近づく」「はじけるような笑顔」「緊張したふるまい」など、内的な感覚に「ソワソワする」、「鼓動が速くなる」など、隠れた感情を表すサインとして「頬が赤くなる」、「ちらっと見る」など、一つの言葉に対して60~90個の類語を収録しています。
まとめ
翻訳の解像度を上げ、翻訳表現をさらに豊かにしていくことは翻訳者たちのライフワークともいえるでしょう。一朝一夕に日本語力を向上させることは簡単ではありません。今日挙げた類語辞典も参考にしながら、日本語力を磨き続けていきたいものです。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。
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