今年 10 月の国慶節期間中、話題になったのはヒューストン・ロケッツのゼネラルマネージャーであるダリル・モーリー氏のツイートでした。モーリー氏は自身の Twitter で香港デモを支持する発言を流し、これに中国ファンたちが大反発。
モーリー氏の不適切発言後に NBA もコメントを出したのですが、その英語版と中国版に大きな隔たりがあったことで事態はさらに泥沼化しました。NBA のコミッショナーを務めるアダム・シルバー氏も、インタビューで公式文書の翻訳をチェックすることの重大性について言及しています。
今回はこの事件を題材に、翻訳のニュアンスが与えうる大きな心理的乖離について考えてみたいと思います。
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2019 年 10 月 7 日、NBA は公式微博アカウント上で以下のような声明を発表しました。
「我々はヒューストン・ロケッツのゼネラルマネージャー、ダリル・モーリー氏の不適切な発言に非常に失望しています。彼は中国の NBA ファンたちの心に、間違いなく重大な傷を負わせてしまいました。モーリー氏はすでに彼の発言が、ロケッツとNBAの立場で発されたものではないことを明言しています。
NBA の価値観からすれば、我々はそれぞれ関心のある事柄を深く理解し、互いに考えを分かち合うことができるはずです。我々は中国の歴史と文化に深い敬意を払っており、スポーツと NBA が団結することでプラスのエネルギーが生まれ、国際文化交流の架け橋として人々を結び合わせることを期待しています。」
▲NBA による声明の中国語版、英語版、および英語にした場合の比較画像
コメントの中国語版からは、NBA が以下の 4 つの点を表明しようとしていることが伺えます。
モーリー氏に非常に失望しているということ
モーリー氏の発言がロケッツと NBA を代表するものではないこと
NBA が言論の自由を支持していること
中国市場と NBA が引き続き協力しあうこと
しかし、英語版のコメントにおいて、NBA は謝罪やモーリー氏に対する処罰の決定などは表明していませんでした。
中国語版のコメントのみを見たファンたちは、これを「NBA がモーリー氏との関係を慌ててごまかそうとしている」と捉えて憤慨。
原因は、中国語版の翻訳にある「极其失望(非常に失望した)」のニュアンスでした。
英語の原文でいう「regrettable」の訳なのですが、これはもともと後悔や残念な気持ちを表すもの。NBA 側はモーリー氏の不適切なコメントに「失望」したのではなく、現在続くぎこちない局面に遺憾の意を表していたことが分かります。
これが中国語版では「extremely disappointed」とされてしまったことで、さらに誤解を招く事態を引き起こしたのです。
また、NBA コミッショナーのアダム・シルバー氏がどちらの肩も持たず、どちらにも取れるような説明をしたことが中国ファンをさらに怒らせ、火に油を注ぐ結果に。その後、連盟も「声明の本来の意味を伝えているのは英語版のみ」だということを発表しました。
このようなぎこちない状況が再度生じないよう、シルバー氏はインタビューで「NBA は今後、正式声明の翻訳をより厳密にチェックする」旨も表明しています。
「この事件に関しては、私自身もすべて正しい対応ができたとは言い切れません。中国市場と NBA との関係、そして CCTV での NBA 放送の再開にこれから取り組まなければいけない中、現時点ですべての対応の正誤を結論付けるのは時期尚早です。今後、元の状態へと戻れることを期待しています。
問題となった声明についてですが、中国語版は英語版の本来の意味をきちんと訳出していませんでした。この事件からの教訓を糧に、今後は正式に審査を受けた声明のみを発表する必要があります。もちろん悪意があったではないにしろ、句読点や修飾語をわずかに変えるだけで、翻訳の意味も変わってしまいます。当時、私がまだ中国にいた時、『ニューヨーク・タイムズ』の記事で"アメリカ版と中国版の声明が異なる”と批判されていたことを覚えています。今後は厳しい審査のもとで翻訳文書の作成を進め、このような批判が生じないよう徹底させていきます。」(シルバー氏インタビューより抜粋)
ただシルバー氏の発言に対して、多くのアメリカのメディアは不満を隠せない様子。Yahoo! Sports の記者、ダン・フェルドマン氏は自身の記事の中で、「世界トップのリーグとして広報面で重大な危機に直面している中、NBA は翻訳のシステム化すら実現できていないことに驚きを隠せない」と語っています。
もしこの点が克服できなければ、NBA は自らの意見を別の誰かに代弁してもらわなければならず、言論と広報をマネジメントする能力を失ってしまうことになるでしょう。将来、不正確な声明のためにさらに多くの問題が生じてしまいかねません。
たかが翻訳、されど翻訳。特に、今回のように感情を伝達する場合には、そのニュアンスを正確に表現するためのことば選びが不可欠です。私たち翻訳会社も、コミュニケーションの伝達という重責を担っていることを常に忘れずに、今後も研鑽していかなければ!
今年最後の記事、お読みいただきありがとうございました。
どうぞ良いお年をお迎えください。
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