政府の重要な会見などで必ず目にする手話通訳者。年齢や環境、障がいの有無にかかわらず、どんな人も同じように情報を入手できるようにする「アクセシビリティ」の取り組みの一環といえるでしょう。
2022年に厚生労働省が行った調査によると、日本の聴覚・言語障がい者は約37万人といわれています。しかし、それに対して聴覚障がい者と健聴者のコミュニケーションを手話を用いてサポートする公的な資格「手話通訳士」として登録されている方はわずか4,194人(2024年3月時点)です。
ただ、聴覚障がい者とコミュニケーションするためには必ずしも手話通訳士のレベルの手話が求められるわけではありませんし、もっと言えば手話以外に筆談やジェスチャー、さらにはテクノロジーの恩恵を活用することによっても相手とつながることは可能です。
今回は手話通訳・翻訳をめぐる現状を知り、これから聴覚障がい者とのコミュニケーションツールとなり得るアプリについても紹介します。
手話通訳・翻訳の必要性
一言でいえば、手話通訳・翻訳が必要なのは「アクセシビリティ」を確保するためです。
「アクセシビリティ(Accessibility)」とは、「利用のしやすさ」「近づきやすさ」「便利であること」などと訳されます。アクセシビリティはさまざまな文脈で用いられますが、聴覚・言語障がい者に関していえば、行政サービスや医療へのアクセシビリティが問題になります。アクセシビリティの確保は、聴覚障がい者の健康や財産、場合によっては生命にも関係します。
例えば、聴覚障がい者が体調不良を覚えたとしましょう。次のアクションとして病院に向かい、必要な診察を受け、薬を処方してもらうことが必要です。しかし、多くの医療関係者は手話によるコミュニケーションができません。筆談は可能ですが、口頭でのコミュニケーションと比べて得られる情報量に限界がありますし、そもそもやりとりに時間がかかります。同じことは複雑な行政手続きにも生じ得ます。
病気や手続きのたびに、負荷のかかるやり取りをしなければならない聴覚障がい者にとってのアクセシビリティは健聴者よりも「低い」といわざるを得ないでしょう。そして、こうしたギャップを少しでも埋めるために活動しているのが手話通訳士の方々です。しかし、冒頭で述べたようにその数は聴覚障がい者に対してあまりにも少ないのが現状です。
聴覚障がい者を取り巻く現状とは?
ここでは、聴覚障がい者を取り巻く日本の現状について紹介します。
法律と制度の整備
障害者基本法(2011年改正)や障害者差別解消法(2016年施行)により、手話を含む障がい者のコミュニケーション手段の保障が進んでいます。また、2013年には「手話言語条例」が一部の自治体で制定され、手話を言語として認め、普及を進める動きが広がっています。
手話通訳者の育成
冒頭で言及したように、日本には手話通訳士の国家資格があり、資格取得者が各地で活躍しています。ただし、資格取得には専門的な訓練が必要で、通訳士の数が需要に対して十分ではない地域もあります。そのため、地域によっては自治体や手話サークルが通訳者を育成する講座を開催しています。
今後も手話通訳者が増え、役所や病院、学校などの公共サービスや、テレビ放送やインターネット配信などのメディア、講演会やセミナーなどで手話を用いたコミュニケーションが滞りなく行われることが理想です。
課題
以前に比べて手話に関する法的整備はなされてきていますが、一般の人々の理解や関心は十分ではありません。そもそも手話を「言語」としてとらえている人はあまり多くないでしょう。
手話が「言語」とはどういうことでしょうか?それは英語や中国語と同じように、手話は独自の文法や表現方法を持ち、独特の文化さえ持っているということです。
手話というと、日本語の単語をただそのまま「身ぶり」に置き換えることをイメージするかもしれません。しかし、手話通訳士はそのようには翻訳していません。プロの手話通訳を見ると、手の動きには抑揚やスピードがありますし、表情も次から次へと滑らかに変化することに気づくはずです。そうした表情や手の動きすべてを含めて、手話という「言語」を構成しているのです。
別の課題として、手話通訳士の地域格差も挙げられます。一般的に、都市部に比べて地方では手話通訳者が不足している場合があります。また、難関資格である手話通訳士になっても、職業的通訳者として活躍できる人はわずかです。それは、通訳者への報酬や活動支援が十分でないケースもあり、職業としての安定性が不十分だからです。
中国手話について
中国の聴覚障がい者の数は約2,780万人といわれています。その数は日本の75倍であり、中国と日本の人口差を考えても、全人口に占める割合が非常に高いことが分かります。私自身かつて中国で生活していた頃、街中の至るところで聴覚障がい者たちが手話でコミュニケーションをしているのを頻繁に見かけたことを思い出します。
聴覚障がい者の友人がいたこともあり、私も中国手話を少しかじったことがありますが、びっくりしたのは、それぞれの出身地で手話も異なるということ。まるで、健聴者が話す中国語に方言があるように、同じ言葉でも表現の仕方が違うのです。手話がまさに言語であることを体感しました。
興味深いのは、健聴者が話す方言はお互いに理解不能であることが多いですが、聴覚障がい者同士は表現の仕方が異なっていても、その手話からイメージを膨らませて相手の意図を汲めることが多かったことです。驚くことに場合によっては学んだことのない外国の手話も何となく分かることが多いらしく、手話はグローバルな言語なのだと感じさせられました。
手話通訳士について
日本で手話通訳士になるには、「手話通訳技能認定試験」を受験して合格し、社会福祉法人「聴覚障碍者情報文化センター」に登録しなければなりません。また、全国手話研修センターが実施する「手話通訳者全国統一試験」に合格し、都道府県独自の「手話通訳者認定試験」に合格すれば都道府県公認の「認定手話通訳者」になることができます。手話通訳者として一人前になるには最低4~5年の経験が必要とされています。
手話翻訳アプリの紹介
手話翻訳アプリや AI による手話認識技術が開発されていますが、まだ実用化に向けた改善が必要です。手話通訳・翻訳の普及は進んでいますが、地域や分野による差があり、さらなる社会的な理解と支援が求められています。
以下は、すでに日本や国際的に利用されている手話通訳・翻訳アプリの例です。
1. SignAll
最先端のアプリで、AI を使用してアメリカ手話(ASL)をテキストや音声に翻訳します。
手や体の動きを捉えるために、専用のカメラ設定と連携して動作します。ASL 使用者と非使用者の間のアクセシビリティとコミュニケーションを改善することに焦点を当てています。
2. Signapse
Signapse はイギリス発のアプリで、高度な AI 技術を活用し、聴覚障がい者コミュニティへのアクセシビリティを向上させるため、リアルタイムで英国手話(BSL)の翻訳を提供します。鉄道の時刻表や安全情報など、イギリス国内2,400の鉄道駅における公共交通のアナウンスに適用可能です。現在、イギリスの鉄道ネットワークで試験運用中であり、将来的には他の公共空間やデジタルプラットフォームへの拡大も視野に入れています。
3. The ASL App
アメリカ手話(ASL)の学習と使用を支援するアプリで、手話のビデオデモンストレーションを特徴としています。主に学習ツールとして機能しますが、よく使われるフレーズや単語の手話をすばやく検索することも可能です。
4. ProDeaf
ブラジル発のアプリで、テキストや音声をリブラス(ブラジル手話)にアニメーションアバターを使って翻訳します。ポルトガル語圏の聴覚障がい者と健聴者の間のコミュニケーションギャップを埋めることに重点を置いています。
5. RogerVoice
電話の会話をリアルタイムで文字起こしするツールで、手話にも対応したアプリです。主に文字起こしサービスとして機能しますが、他のアクセシビリティツールと統合されており、聴覚障がい者や難聴者をサポートします。
6. Lingvano
世界で最も人気のある手話アプリの一つで、初心者でも楽しみながら手話を迅速に習得できるよう、動画レッスンを中心に構成されています。対応する手話は ASL だけでなく、BSL やÖGS(オーストリア手話)も選択可能です。
日本発のアプリで、手話通訳者をスマートフォンを通じてリアルタイムで呼び出し、会話をサポートします。主に公共機関や医療機関などで活用されており、利用者と手話通訳者をビデオ通話でつなぐ仕組みです。
8. SignLive
イギリス発のサービスで、リアルタイム手話通訳を提供するプラットフォーム。聴覚障がい者が企業や公共サービスとやり取りする際に利用可能です。BSL(イギリス手話)に特化しています。
日本の手話学習・翻訳アプリで、手話単語の検索や学習が可能で、手話翻訳機能もあり、手話を学びたい初心者にも役立ちます。
10. Google Translate(手話実験機能)
Googleは一部の地域で手話翻訳の実験を行っています。AIを活用して手話のジェスチャーをカメラで認識し、音声や文字に翻訳する技術を開発中です。ただ、現在は限定的な機能であり、進化中の分野です。
11. NHK 手話 CG 単語検索
手話を学ぶ方におすすめの便利なウェブツール。このサイトでは、約8,000語の基本的な手話単語をCGアニメーションで確認することができます。動きを自由な角度から観察できるほか、再生速度も調整可能。簡単な検索機能を備えているため、初心者から実践者まで幅広いユーザーに役立つツールです。
まとめ
だれもが手話通訳者になれるわけではありませんが、アプリなども活用することで聴覚障がい者とのコミュニケーションギャップはかつてなく少なくなりつつあります。しかし、結局、どれだけ便利なツールでも、使いこなすのは私たちです。手話を学んだり、アプリを使ったりしてみようと私たちを動かすのは「相手とつながりたい」「何を考え、感じているのか理解したい」というシンプルなパッションといえるでしょう。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。