対面のやり取りや会社の会議だけにとどまらず、テキストメッセージを送るときにも、日本社会のコミュニケーションを支配する「空気」。私たち日本人は周りから「空気を読めない」と評価されることを何よりも恐れます(フリーランスの翻訳者の方はそうじゃない方も多いと思いますが…)。
空気を読む人、読まない人
そもそも、日本人にとっての「空気」とはどういった存在なのでしょうか?これについては多くの書籍が出ていますが、よく知られているのが1977年出版の山本七平著『「空気」の研究』かもしれません。
同氏は論理的には明らかに間違ったことであっても、日本社会における「空気的意思決定」は「非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『善悪の基準』」として作用すると説明しています。
しかし、外国人に「空気」について言語化して説明することは容易ではありません。日本人の誰もが影響を受けながら、その実体について説明できないもの、それが「空気」ではないでしょうか?
中国人にとっての「面子(Miànzi)」も、コミュニケーションを支配する絶対的不文律でありながら、説明が非常に難しい概念です。日本人にとっての「メンツ」は「プライド」くらいの意味で使われますが、中国では意味合いが大きく異なります。
今回はこの摩訶不思議な中国人の「面子」について、日本人にとっての「空気」と比較しながら考察してみたいと思います。
日本の「メンツ」とは大きく異なる
「空気」と「面子」という2つの不文律の間で揺れ動いた個人的なエピソードがあります。
2008年に中国に渡り、大学で中国語を学び始めたばかりの頃でしたが、地元の中国人の大学生と知り合いになりました。近くの食堂でお昼を、という話になり「家常菜(Jiācháng cài)=家庭料理」の店に入りました。
中国人が「メンツを大事にする」という話は聞いていましたが、二人で軽く食事をするだけだし、学生だからお金がないだろうし、年齢的には私が10歳近く年上でしたので、「ここは僕が」と2人分の支払いを済ませました。
相手から「ありがとう!」というリアクションが返ってくるかと思っていたら、彼の表情は思ってもみないようなものでした。彼は憮然と、そして悲し気な様子で「僕の面子はどうなるんだ‥‥」と言ってきたのです。
彼は大学生でお金がないとはいえ、地元の人間。そんな立場であるにもかかわらず、外国人で中国語もほとんど話せない私にお金を出させるなんて「面子丸つぶれ」だったという訳です。
日本であれば「空気を読める」人として評価されてもおかしくない状況で、相手に喜んでもらえるどころか不愉快にさせてしまい、私はなんともいたたまれない気持ちになったことを覚えています。学生だろうと、お金がなかろうと、相手が自分より年上であろうとなかろうと、中国人にとっての「面子」は最大限尊重すべきものだと感じた瞬間でした。
中国人にとっての「面子(Miànzi)」とは?
中国語には「死要面子活受罪( sǐyàomiànzi huóshòuzuì) 」という言葉があります。漢字からある程度の意味は想像できると思いますが、「死んでも面子にこだわり、ひどい目に遭う」というような意味です。
この言葉からも分かるように、中国人にとって「面子」は「命」と並べられる程大事なものであり、人間関係において「面子を傷つける」ことは絶対に避けるべきことであることが分かります(私は無知ゆえにそれをしてしまった訳ですが…)
では、これほどまでに重要な面子とは一体なんでしょうか?「百度百科」(中国版Wikipedia)で「面子」を調べてみると、次のような一文がありました。
「今に至るまで『面子』について理論的、科学的、普遍的な定義を与えることができた研究者はいない」
中国人にとって命と同じほどの価値があるにもかかわらず、曖昧模糊としているもの、それが「面子」ということがお分かりいただけると思います。これはまさに日本人の「空気」と同じです。
それでも同じページの中には面子についての興味深い記述があり、「なるほど!」と思わされました。これは中国語も一緒に引用しておきたいと思います。
「面子实际上是个体对自我在他人心中的价值与地位的关注,自我价值是面子的内核,社会性资源是面子的象征(面子とは他人の心の中で自分がどんな価値があり、地位を占めているかということだ。そして、面子の核心は自分の価値であり、社会的資源が面子の表れとなる)」
なんだか大仰な言い方ですが、誤解を恐れずにいうと、こういうことかと思います。
日本人は「メンツを潰された」といっても「プライドを傷つけられた」という意味で使っているに過ぎず、本当の自分の価値は別のところにあると考えます。しかし、中国人にとっての「面子」はその人の価値そのものです。つまり、「面子を潰す」ということは相手の人格や存在を否定することになるのです。
面子が分かれば中国人が分かる
上述の「面子」の定義によると、「社会的資源が面子の表れ」ということでしたが、言い換えると仕事上の成功や築いた財産、地位、名声などによってその人の価値そのものが図られるということです。
中でも最も分かりやすいのは「お金」でしょう。よく中国の人たちは「拝金主義」と批判されることがありますが、彼らの行動原理にある面子について理解すれば、その理由が分かります。彼らもお金がすべてではないことは百も承知ですが、お金があれば立派な家に住み、豪華な車に乗って友人や親族から重んじてもらえます。またお金があれば頼ってくる人たちを助けることもでき、そうすればますます自分の「面子」が上がるという訳です。
つまり、中国の人たちはお金そのものに価値を求めているというよりも、お金によって高めることができる自分の「面子」にこそ価値を求めているのです。
また、よく「中国人は謝らない」というイメージを持つ人たちもいます。これも「面子」から説明可能です。彼らも失敗した時、自分が悪いことをしたと思っていないわけではありません。しかし、それを他の人の前で認めてしまった瞬間、自分の価値が落ちると考えるのです。ですから、何とかそれを認めさせようとするよりも、彼らの「面子が立つ」仕方で償ってもらえる方法を考えて、アプローチしなければなりません。
「空気」も「面子」もほどほどが良い
日本社会における「空気」はどちらかというとネガティブに捉えられることが多いですが、悪い面ばかりではありません。論理ばかりでは行き詰まってしまうことも、空気であれば変幻自在、いつのまにか全体の雰囲気をうまくまとめる原動力として機能することもあります。
例えば、コロナ禍において一気にリモートワークが導入されたのは「空気」ゆえだったのかもしれません。日本社会全体の中に少しずつ「リモートワーク導入」の空気が形成され始めて、「周りがやっているならうちもやるか」と各企業が動くことによって、論理では成し遂げられなかったことが実現してしまいました。
同じように中国人にとっての「面子」もうまく機能すればコミュニケーションを円滑にします。相手の面子を立てるために敬意を払えば、それはいずれ自分に対する敬意という形で返ってきます。しかし、みんなが自分の面子を立てることばかり考えると、ひとり一人が実績をあげることばかり追求するようになり、組織のチームワークは立ち行かなくなります。
日本人の「空気」も中国人の「面子」もほどほどが良いのに、と思うのですが、そうはいかないところが悩ましくも、また面白いところでもあるのかもしれません。
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著者プロフィール
YOSHINARI KAWAI
2008 年に中国に渡る。四川省成都にて中国語を学び、約 10 年に渡り、湖南省、江蘇省でディープな中国文化に触れる。その後、アフリカのガーナに1年半滞在し、英語と地元の言語トゥイ語をマスターすべく奮闘。コロナ禍で帰国を余儀なくされ、現在は福岡県在住。
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